俳優の田村正和さん死去、77歳 ドラマ「眠狂四郎」「古畑任三郎」
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(5月 18日)田村正和さん(2016年撮影) 引用:スポーツニッポン新聞社
スポニチアネックスによるとテレビ時代劇「眠狂四郎」、刑事ドラマ「古畑任三郎」などダンディな二枚目からコミカルなキャラクターまで幅広く演じた、俳優の田村正和(たむら・まさかず)さんが4月3日午後4時20分、心不全のため東京都港区の病院で死去したことが18日分かった。77歳。京都市出身。葬儀・告別式は親族で行った。喪主は妻和枝(かずえ)さん。往年の名俳優、阪東妻三郎さんの三男で、長兄の田村高廣さん、弟の田村亮も俳優で「田村三兄弟」と呼ばれていた。
1943年(昭和18年)生まれ。成城大卒。61年高校在学中に映画「永遠の人」でデビュー。66年に大学を卒業するまで学業と俳優活動を並行して行い、63年の「花の生涯」から5年続けてNHK大河ドラマに出演した。
当初、声があまり通らず風貌も地味に映ったことから脇役が多かったが、70年フジテレビの昼ドラマ「冬の旅」で注目され、72年「眠狂四郎」(フジテレビ)のニヒルな役どころが評判となり人気に火が付き、哀愁漂う演技が女性の心をつかんだ。その後、「若さま侍捕物長帳」(78年)、田村三兄弟で共演した「乾いて候」(83年)「ニューヨーク恋物語」(87年)、「過ぎし日のセレナーデ」(89年)、「パパとなっちゃん」(91年)などがヒットし、話題となった。
83年にTBSドラマ「うちの子にかぎって…」、87年に同「パパはニュースキャスター」に主演し、これまでとは違ったコミカルな演技で新境地を開き、お笑い芸人らがものまねをするようになると、若い世代にも人気を得た。
94年から放送された「古畑任三郎」(フジテレビ)は10年以上演じ代表作の1つとなった。
09年にTBSの特別企画ドラマ「そうか、もう君はいないのか」がモナコのモンテカルロ・テレビ祭でテレビフィルム部門最優秀男優賞を受賞。日本の民放作品としては初の受賞となった。18年のスペシャルドラマ「眠狂四郎 The Final」(フジテレビ)が最後のドラマ出演となった。
田村正和さんの訃報にご冥福をお祈り申し上げます。
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田村正和さんと父娘役 西尾まり「思考停止中,パパはニュースキャスター」で共演
田村正和さんと西尾まり(2016年撮影) 引用:Twitter.com
同じスポニチは、田村さんの代表作の1つであるTBS系「パパはニュースキャスター」(1987年)では親子役を演じたほか、「うちの子にかぎって…」「子供が見てるでしょ!」(85年)など数多くのドラマで共演した女優・西尾まり(47)はインスタグラムのストーリーで「うーーーーーん。思考停止中。」と短くコメント。田村さんの名前には触れていないが、訃報を受けて心境をつづったものとみられる。
インスタグラムのコメント欄には「パパは、ニュースキャスター見てました。田村正和さん、亡くなられて残念です」「西尾さん、パパがお亡くなりになられました。。。」と悲しみの声が寄せられている。
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「料理の鉄人」出演で人気に神田川俊郎氏が死去 81歳
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(4 月 25日) 神田川俊郎氏 引用:スポーツニッポン新聞社
スポニチアネックスによると テレビ番組「料理の鉄人」などで知られた料理人の神田川俊郎氏が死去したことが25日、分かった。81歳だった。神田川氏は今月、新型コロナウイルスへの感染が確認され、大阪市内の病院で治療を受けていたという。
大阪に日本料理店を4店舗展開する神田川氏は、1993年から放送された人気番組「料理の鉄人」(フジテレビ系)で、「関西料理界のドン」として鉄人に挑戦する姿が話題を呼んでブレーク。その後も「花に水、人に愛、料理は心」を合言葉にユニークなキャラクターでバラエティー番組に引っ張りだこになったほか、CMキャラクターに抜てきされるなど、一躍、時の人となった。
また、仕事に打ち込むあまり40年以上連れ添った妻と熟年離婚していることをテレビ番組で打ち明けている。
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料理研究家 神田川俊郎さん死去 テレビ番組に多数出演
同じくNHK NEWS WEBは、大阪市内で複数の料理店を営む一方、テレビ番組にも多数出演し、軽快なトークで人気を博してきた料理研究家の神田川俊郎さんが、25日朝早く、亡くなりました。81歳でした。
神田川さんは新型コロナウイルスに感染し、大阪市内の病院で治療を受けていたということです。
神田川俊郎さん、本名、大竹俊郎さんは、昭和14年に京都市で生まれ、有名料理店で修業を積んだあと、昭和40年に大阪・北区で和食料理店を開きました。
その後、複数の料理店の経営を手がけてきたほか、テレビ番組にも多数出演し、華麗な包丁さばきと「料理は心や」の決めぜりふなど、軽快なトークで人気を博しました。
また、全日本調理師協会の名誉会長を務め、全国各地で料理人の育成にもあたってきました。
関係者によりますと、神田川さんは今月16日に、自宅で体調を崩して病院に運ばれたあと、新型コロナウイルスへの感染が確認されたということです。
入院し治療を受けていましたが、けさ早く亡くなったということです。81歳でした。
神田川さんの訃報にご冥福をお祈り申し上げます。
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池江璃花子、4冠締め!競泳50M自由形で優勝、「4冠凄く嬉しい」
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(4月10日) 引用 : スポニチ
スポニチアネックスによると、東京五輪代表選考を兼ねて行われ、白血病から復帰した池江璃花子(20=ルネサンス)は女子50メートル自由形決勝で24秒84をマークし、優勝。大会4冠を果たした。◇競泳日本選手権最終日(2021年4月10日 東京アクアティクスセンター)
前日の準決勝では全体1位の24秒87で通過。復帰後の自己ベストは2月のジャパン・オープンで出した24秒91だった。同種目の派遣標準記録24秒46を突破した上で上位2人以内に入れば東京五輪代表に内定するが、惜しくも逃した。
今大会は手足の冷えに苦しんでいた。会場は五輪本番でも使用される東京アクアティクスセンター。建物が広く控え室からメーンプールへの移動には廊下を通る必要があり、更衣室からサブプールの距離もある。「もともと冷え性なので体が温まらない。それだけで50メートルは感覚が変わる」。分厚い靴下を履き、湯たんぽを使用。レース前のアップをプールに入らずに陸上トレだけにするなど工夫を凝らした。
8日間で計11本のレースに出場。序盤に最も負担の大きい100メートルバタフライを泳いだ影響もあり、疲労は日を増すごとに蓄積された。終盤は顔の血色がよくないようにも見え「疲れが顔に出ているのかもしれない」。病気前は無頓着だったクールダウンを入念に行い、連日できる限り早く就寝。起床後に体が重くても、あえて「今日も大丈夫だ」と思い込むことで自己暗示をかけていた。
今大会、池江は4日の100メートルバタフライ、8日の100メートル自由形で優勝して2冠を達成。リレーの2種目で五輪に内定していた。最終日のこの日、非五輪種目の50メートルバタフライで優勝し、50メートル自由形も制覇。4冠という最高の形で日本選手権を締めた。
▼池江璃花子「(50メートルバタフライから1時間後のレース)もう少し(タイムは)上げられるかなと思ったが4冠達成できて凄く嬉しい。(入場時のガッツポーズは)レース直前、ぎりぎりまで勝てるか勝てないか不安があったが、入場した瞬間に“絶対勝つ”と意気込んだ。本当にこれからどんどんタイムを上げていくための課題が見つかり、それを楽しみにして頑張りたい」
◆コメント
とにかく凄いとしかいいようがないですね。
疲れが溜まっているようなので、ゆっくりして、また活躍してほしいです。
色々と問題があるオリンピックですが、やっぱり選手たちがこれを目指して頑張ってきたので、その活躍を見たいです。
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池江璃花子、奇跡の五輪メドレーリレー切符!
白血病判明からわずか2年
(4月5日)引用 : サンスポ
サンスポは、競泳・日本選手権2日目(4日、東京アクアティクスセンター)病を乗り越え、東京五輪へ!!
代表選考会を兼ねて行われ、白血病からの完全復活を目指す女子の池江璃花子(20)=ルネサンス=が、100メートルバタフライを57秒77で制した。
日本水泳連盟が定める派遣標準記録(57秒10)は破れなかったが、400メートルメドレーリレーの選考基準(優勝と派遣標準記録57秒92)を満たし、東京五輪代表に決まった。
2019年2月の病気判明から2年余り。奇跡的な復活劇を披露したヒロインは「今すごく幸せ」と涙ながらに語った。
プールから上がれない。池江は無観客の会場で、声を上げて泣いた。つらかった治療の日々が、走馬灯のように頭を駆け巡った。
100メートルバタフライ決勝で、全力を出し切り、重たくなった体。力なくプールサイドに立つと、仲間の待つスタンド目がけ、涙でいっぱいの笑顔でガッツポーズを繰り出した。「自分が勝てるのはずっと先のことだと思っていた。
努力は必ず報われるんだなと思った。
今すごく幸せ」。レース直後のインタビューでも涙が止まらなかった。
日本水連の定める個人種目の派遣標準記録(57秒10)は破れなかったが、57秒77で優勝。400メートルメドレーリレーの派遣標準記録(57秒92)を突破し、一度は諦めた地元開催の東京五輪代表を決めた。
「ただいま」。そう小さくつぶやき、東京五輪の本番会場でもある東京アクアティクスセンターに入場して迎えた決勝。戦略がピタリとはまった。予選、準決勝と50メートルでのターンが合わず、後半は足に力が入らず伸びを欠いた。
その課題を1日で改善するため、決勝はスタート後のドルフィンキックの数を調整。後半のために前半は「楽に速く」をテーマに、タッチもピタリと合わせて2番で折り返した。
ラスト25メートル。ためていた最後の力で強烈なキックを打ち続けた。グッと前に飛び出し逃げ切り、この2日間で0秒91もタイムを上げた。
現在も6週間に1度は通院。抗ウイルス剤を毎日服用するが、日本記録(56秒08)を持つ本命種目でライバルを圧倒した。
786日前の19年2月8日、白血病の診断を受けた。「治療で髪が抜けます」と医師から言われ、初めて泣いた。あまりにも過酷な闘病。東京五輪の代表になる自分を想像することすらなかった。抗がん剤治療は「思っていたより、数十倍、数百倍、数千倍しんどい」。最も体調が悪いときは音や食事にも拒絶反応を示し「死にたい」とまで思った。夜、同時期に骨髄移植を受けた友人と病室をこっそり抜け出し、真っ暗なリハビリ室で涙を流した。先が見えなかった。
あれから2年余り。一度は絶たれた東京五輪出場の夢は運命に導かれるように復活した。新型コロナウイルスの影響による1年延期と、19年8月予定だった退院が回復の遅れで先延ばしになったことで受けた治療で体調が好転。そのままの時期に退院していたら、2年間の通いでの抗がん剤治療が予定されていた。その場合は、東京五輪代表選考会が開かれた今もプールには入れていなかった。
勝って当たり前だった自分が誰にも勝てなくなった悔しさも原動力になった。これまで以上の「みんなに勝ちたい」という思いが、驚異的な回復につながった。24年パリ五輪を目標に掲げる再起の道で、誰もが想像できなかった東京五輪への扉をこじ開けた。
「優勝できるとは思っていなかった。(東京五輪まで)さらにタイムを伸ばすことを目標にしたい」
400メートルメドレーリレーでの代表入りを決めたが、日本選手権で残り3種目に出場する。大会5、6日目の100メートル自由形は、復帰後のベストタイムが400メートルフリーリレーの派遣標準記録(54秒42)まで1秒を切っており、最も代表入りが近いとされる。「気を抜かずに頑張っていきたい」。白血病からの完全復活。池江の起こすドラマは、まだ始まったばかりだ。
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【サマー先生とプライムイングリッシュ】バイデン大統領の英語を細かく分析!
今日はyoutuebチャンネルで登録者数 30.6万人を誇るサマー先生と英会話【プライムイングリッシュ】の紹介をしていきましょう。
教材開発者は笑っていいとも「発音王」のコーナーで講師を務めたサマー先生です。
この【プライムイングリッシュ】は、20-60代の男性や女性で会社員、自営業者、主婦、学生の方など英語習得に意欲のあるけど、過去に他の英語教材で英語学習に挫折した方に向けた英会話教材です。
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俳優・田中邦衛さん死去、88歳「北の国から」「若大将」シリーズ
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ーツニッポン新聞社)
スポニチアネックスによると映画「若大将」シリーズ、テレビドラマ「北の国から」などで活躍した俳優の田中邦衛(たなか・くにえ)さんが3月24日午前11時24分、老衰のため死去した。88歳。岐阜県出身。関係者によると、最期は家族に看取られながら息を引き取ったと報道した。
1932年(昭和7年)生まれ。短大卒業後、中学での教員生活を経て55年に俳優座養成所に入所。3年後に座員に昇格した。61年に映画「大学の若大将」で加山雄三演じる若大将のライバル・青大将役に。コミカルな演技が人気を呼び、以後シリーズで欠かせない存在となった。一方で個性的な風貌から任侠映画にも多数出演し、故高倉健さん主演の「網走番外地」シリーズ、故菅原文太さん主演の「仁義なき戦い」シリーズでも活躍した。
81年スタートのフジテレビ「北の国から」では、妻と別れ2人の子どもと北海道・富良野で生活する、黒板五郎役を熱演。番組のヒットとともに、ものまねをされるなど人気を博した。89年から出演した大正漢方胃腸薬のCMでは「食べる前に飲む」というキャッチフレーズを定着させた。
93年には映画「学校」などで、第17回日本アカデミー賞助演男優賞を受賞した。99年に紫綬褒章、06年に旭日小綬章。
12年に「北の国から」などで共演した地井武男さんが亡くなり、8月に行われた「お別れの会」では「お礼の言葉」を述べたが、同ドラマで息子役だった吉岡秀隆に支えられながら、祭壇の前に立った。以後、公に姿を見せることはなく、最近では俳優を休業状態だった。
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田中邦衛さん死去 家族がコメント発表「最期の日まで、前向きに生きる気力と感謝を持ち続けていました」
『年末年始ドラマ【北の国から】一挙放送』引用
同じくスポニチアネックスは、死去した俳優の田中邦衛(たなか・くにえ)さんの家族は、マスコミ各社にファクスを送付し「家族に見守られながら、安らかな旅立ちでした」と明かし、「葬儀につきましては、静かに見送ってほしいとの故人の希望により、過日、家族葬の形で執り行いました」としている。お別れ会・しのぶ会も行う予定はないとし「出演させて頂いた作品を通し、故人を思い出して頂くことがあれば、幸甚に存じます」とつづられていると報じた。
【家族からのお知らせ全文】
俳優・田中邦衛は、2021年3月24日午前11時24分、老衰のため、息を引き取りました。家族に見守られながら、安らかな旅立ちでした。88歳でした。
長年、応援してくださったファンの皆様をはじめ、多くの方々に支えられ、心に残る数々の作品に出会い、幸せな役者人生を歩むことが出来ました。ここに、生前の御厚誼を心より感謝いたしますとともに、謹んでお知らせ申し上げます。
故人は、最期の日まで、皆様からの励ましを支えに、前向きに生きる気力と、周囲への感謝を持ち続けていました。素晴らしい医療・介護チームのサポートのもと、私たち家族も、共にかけがえのない時を過ごすことができました。
葬儀につきましては、静かに見送ってほしいとの故人の希望により、過日、家族葬の形で執り行いました。御香典、御供花などは、お気持ちだけありがたく頂戴し、辞退させて頂きたく、お願い申し上げます。また、お別れ会・しのぶ会などにつきましても、実施する予定はございません。これまでお世話になった皆様、お一人お一人にご挨拶申し上げるべきのところ、誠に勝手ながら、個人の遺志をご理解頂ければ有り難いです。
出演させて頂いた作品を通し、故人を思い出して頂くことがあれば、幸甚に存じます。
重ね重ね、どうもありがとうございました。
2021年4月2日
家族一同
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